湯、散、丸
葛根湯、当帰芍薬散、八味丸などの漢方薬の方剤名の最後に「湯」とか「散」、「丸」などという字が付いていますが、意味があるのをご存知ですか?「湯」というのは生薬を水で煎じ、その煎じ液を漢方薬とするものです。「散」というのは生薬を細かく砕いて粉末とし、それを漢方薬として飲むものです。「丸」というのは生薬を粉末にして、蜂蜜などで固め丸薬として漢方薬とするものです。
本来はこのようにして使われていたのですが、エキス顆粒などの漢方薬は実はほとんどが煎じ薬になっています。当帰芍薬「散」といっても、生薬を水で煎じ、煎じ液をフリーズドライなどの方法でエキス顆粒としたもので、本来の「散」ではありません。
それでいいのか、と疑問をもたれるかもしれませんが、エキス顆粒の薬だけではなく、生薬を使った本来の漢方薬の「散」や「丸」といわれているものも、ほとんどが生薬を煎じています。この場合、本来の「散」や「丸」と区別するため、「料」という字をつける場合が多いです。たとえば、当帰芍薬散料のように書きます。このようなルールがあるということは、「散」や「丸」を煎じるのが一般となっていることを示していると思います。なぜ煎じになってきたかというと、煎じ薬にした方がどうも薬効がよいらしいのです。原典どおりの「散」や「丸」で処方することは今で少なくなってしまいました。五苓散という漢方薬がありますが、これについて浅田宗伯という明治の漢方の大家が、「五苓散は煎じるより散として使うほうが良い」というようなことを言っています。やはり「散」は「散」として使った方が良いかと思ってしまいますが、これは逆に考えると、五苓散以外の「散」といわれる漢方薬は煎じるほうがよいといっているようにも考えられます。というのも、当帰芍薬散など他の「散」薬では「散」のほうが良いなどと言っていないのです。浅田宗伯というのは徳川慶喜の典医であり、明治の宮廷侍医にもなった本当の大家です。大正天皇を含め、えらい人をたくさん治療しています。こんな偉い人が言うのでは間違いなさそうです。蛇足ですが、のど飴の浅田飴はこの浅田宗伯の処方を基にしているので浅田飴という名がついています。